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出雲大社遷宮祭参列、3泊4日の旅
投稿日時 2013-5-16 0:00:00
執筆者 taiwa2
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5月10日より13日にかけての3泊4日にて、出雲大社遷宮祭の参列と九州の旅に出かけた。
教団の三役が全員での出向となると少し懸念するものではあったが、
60年に一度の遷宮には私共としては是非とも参列させて頂かねばならぬ大事でもある。
出雲大社付近にてもバスの交通量は少なく、予想していた渋滞はなった。
5時前に受付を済ませ、ご案内を頂くと、御垣内に誘導された。
私たちは国造家親族の名札が貼られている席の後列に座らせて頂いた。
立派なテントと胡床が準備されていた。
2時間余の時間の後、儀式が開祭された。
警蹕の『オー』という発声と共に境内を一周され、御垣内に入られた様子であった。
マイクの使用はなく、太鼓・笛・警蹕発声の音のみにて、
祝詞奏上もところどころ幽かに聞こえるものであった。
見ることも聞くこともほとんどなき儀式にて、黙念鎮魂の5時間余の座行となった。
60年に一度の甦りである。
その清新なる神威を拝戴する感謝・感動の刻であった。
見るも聞くもなき儀式にありても、一同、大満足の心であり表情であった。
これこそが神の稜威であり神徳なのであろう。
千家管長様のご配慮に感謝するものである。
5月11日は、朝の1時間程の行を執行、朝食の後、出雲大社の奉幣之儀に参列した。
今日は3時間程の黙念鎮魂の座行となる。
直会は欠席申し上げ、出雲駅より岡山まで特急列車に乗り、
岡山より8分間の急ぎ足にての乗り継ぎにて鹿児島まで九州新幹線に乗車した。
車内はグリーン車の如き座席であった。
途中より父兄同伴での子供等が乗り込む。
子供等がうるさくしていても誰も叱りもしない。
何かのサークルのようであったが、大人等が10人程もいて、
公共のマナーを躾することをせずである。
一言注意しようかと思いし時に下車となった。
大人が大人でなくなっていることに腹立つ自分がいる。
9時前頃にホテルに入り休む。
無事なるを感謝するものであった。
5月12日は終日観光であった。
武家屋敷、知覧、仙巌園、桜島と、名ガイドの案内を楽しむ。
そして面白いことを話していた。
一番嫌いな客は女子高生の修学旅行だという。
ミニスカートで足を投げ出し、パンツが丸見えという。
女子高生が云うには『見せパン』をはいている大丈夫ということらしい。
挙句に化粧をし、香水を平気でかけるとも。
恥じらいも慎みもなくなった状を知るものであった。
教師も注意しないことが多くなったとも話していた。
武家屋敷の石垣と植栽が美しい路地を造っていた。
この中で生活している人は大変であろう。
『バンマツリ』という木に白と青の小さな花が美しく咲いていた。
うちの神社で育つものか調べてみたい。
知覧では突然建物が停電となり、特攻機と少しの手紙を観る。
またゆっくりと来てみたい。
仙巌園は雄大な桜島を望む庭園である。
太洋を眺め桜島を望めば、大き心となるは必定と感じ入った。
私も更なる大き心を造り、宗教活動を展開せねばの想いを新たにするものであった。
桜島の噴灰は生活苦を強いるという。
黒い灰がそれを物語るものであった。
この日、霧島山上ホテルに泊まる。
広い部屋で実に気分よし、風呂もよしでゆるりとさせて頂いた。
料理も美味しなり。皆もゆるりとされたようである。
5月13日、最終日を迎えた。
ホテルを発ち、霧島神宮を参拝した。
もうすでに4台程バスが入っていた。
三重層の屋根が荘厳さを見せていた。
古社の美しさである。
私共の優しき社の景観ではない。
境内をそれなりに一人散策した。
神楽殿の玄関、受付等を検分す。
銅板奉納をさせて頂き、九面を求む。
面は予ねてより求めたきものであった。
赤・青の面を求めた。
この後、この旅のもう一つの目的である『サンメッセ日南』へ。
一燈園当番の西田多戈止先生がわざわざ出迎えて下されて、
モアイ像建立の由来や地球感謝の鐘の由来等についても詳しくご説明下された。
大変勉強になった。
地球へのメッセージとして、国内宗教者16名、国外宗教者13名の銘版があった。
昨年度は19万人余の入園者があったという。
二時間程ではあったが、西田先生と親しくお話しさせて頂いたことに有り難く感謝するものである。
伊丹経由にて無事帰仙す。
御神導、御神助に感謝するばかりである。
久しぶりの4日間の旅であった。
教勢拡充の力と致したいものと念ず。
平成二十五年五月十五日 教主
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