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「週刊ポスト」3月7日号『安倍晋三が怯える宗教パワー』
投稿日時 2014-2-26 0:00:00
執筆者 taiwa2
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2月24日午後、新宗連事務局長より3月7日号『週刊ポスト』の写しがFAXされてきた。
それは大見出しで『安倍晋三が怯える宗教パワー』とあり、4ページに亘る、
「集団的自衛権」、「原発」、「靖国神社」の問題にふれた掲載であった。
我が教団のこと、私のことが三段余りに書かれていた。
私のことは、このブログでの内容や教団の機関紙からの抜粋が主で、
安倍支持派の宗教団体の巻き返しの〈キーマン〉と評されていた。
私如き者をそのように評価されしごとは、良きにつけ悪しきにつけ感謝をしたい。
私は今回の記事の基となった1月11日の『御教事始』の後、
1月20日の新宗連常務理事会において、事務局長が昨年11月来仙した折に聞き及んだ
〈新宗連では過去に国民護持を訴えていた〉という話をさせて頂いた。
そしてその際、靖国神社の問題に対する諸先生方の意見をまとめた書籍があることを知り得た。
昭和43年7月20日初版の『靖国神社問題に関する私たちの意見』という冊子である。
常務理事の先生方も靖国に祀られしご英霊に心を手向け参拝するのは当然との見解であった。
帰路の列車内で熟読をすると、先師先達の諸先生方は、
〈国家護持には反対なれど、靖国のご英霊に対しては国民皆が感謝をなし、
子々孫々に語り継ぐべきだ〉と説かれていた。
その熱い想いに私は有り難さを感体するものであった。
私は日本人として、一人の宗教者として、新宗連の先師先達の先生方のご意志を
改めてこの世に具現致したいものと希っている。
2月17日の常務理事会においても、この意見書本の再版をなし、
多くの先生方にも読んでもらうべきだとの総意があった。
そこには靖國神社に総理が参拝することを反対するばかりではなく、
また政治や外交問題に利用されることもなく、
本質を見極め国民が須らく靖国のご英霊に感謝の心を手向ける精神活動こそが、
私たち宗教団体には必要なことではないかと考えるからである。
そして、その活動こそが先師先達の心であると私は確信をしている。
参考までに3人の先生方の意見文書の一部を述べさせて頂く。
(肩書きは当時のもの)
[新宗連理事長・立正佼成会会長・庭野日敬先生]
『戦没者及び国事に殉じたかたがたを、護国の英霊として祀り、その神霊を尊崇し、
敬意と感謝の念を表わし、その遺徳をしのび、これをなぐさめ、その遺業を永遠に伝えたい』
と私は、心からそうでなくてはならないと思っている。
それはむしろ当然のことであって、それに異論をさしはさむ人はないであろう。
国の、そして、わたしたちの、こんにちをあらしめている大半のものは、
靖国の社(やしろ)に神として祀られている護国の英霊の「おかげ」に負うているのである。
したがって、靖国の社に神鎮まりたもう護国の英霊は、
ご遺族がたにとってたいせつなかたがたであることはいうまでもないが、
単にそうであるばかりでなく、いやしくもこの国に生をうけたもの悉くにとっても、
たいせつなかたがたである。
その意味では、国民全部のものであり、
国民の悉くが感謝し尊崇しまつり仕えなければならないものである。
また、わたしたちのあとをついでいく子々孫々にとっても、そうでなければならない。
そして、そのためには、国民全部がその子々孫々にまで、
この心を持ち続けるよう教え伝えることに力を注ぎ、
いいつぎ語りついでいかなければならないのである。
[新宗連常務理事・善隣会教祖・力久辰斎先生]
靖国神社は国民の手によって護持すべきもの、この正しい姿が打ち出されさえすれば、
運営のための経費などはおそらく問題ではあるまいし、全国民の物心両面の協力によって
靖国の霊に永遠の安らぎをあたえることも容易であろう。
この際また、過去の戦争のあやまちを批反したり、逆に郷愁的に賛美することなども愚の骨頂。
要は戦没者の『みたま』をなぐさめることによって遺族の心をも満たす。
そのことのために、全国民が奉仕する靖国神社国民護持の体制ができればよいのである。
以上の観点から、この問題には保守も革新もない。
超党派的に、政治よりもっと高い次元において、
国民に正統国家観の本質を植えつける方向で処理すべきである。
[新宗連専務理事・事務総長・大石秀典先生]
靖国神社は、このまま放置されると、ペンペン草が生えるようになるかもしれない。
したがって国が財務援助をすべきである。
という人もあるとのことであるが、それで、形の上ではペンペン草は生えないかもしれない。
しかし、それでは、やがて国民の心のなかに靖国神社に対するペンペン草が生える時がくるであろう。
そうあらしめないためには、家庭において、学校において、社会において、
そうあらしめないための教育が必要なのであって、
そのためには、国民総護持こそ最も好ましいといわざるを得ないのである。
平成二十六年二月二十五日 教主
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